2006年 12月 28日
芸術作品と制度 |
IMIの有馬先生のHPから1文を拝借
「(中略)ところが、もうひとつ彼らに共通するのは、破天荒で生気あふれる仕事ぶりと裏腹に、その仕事で何かが変わるといった信念や、他者をなんとか説得しようという気迫が、ほとんど感じられない点なのだ(“自己満足”にみえなくもない)。というより、おそらく彼らは、日本の美術を実際に変革しようなどとは元から思っていないのである。
美術作品が、「美術館解体」であれ「少数者の主張」であれ、何らかの“実効性”を目指したとたん、それはもはや「作品」ではなく、単なる“媒体”に成り下がる。そこで彼らは賢明にも、自分たちの作品から批判の実効性を抜き去った。いわば-やや逆説的だが-彼らの仕事はある種の“シャレ”なのであって、しかしそこがまさに、彼らの芸術の美点なのである(彼らに聞いてもそんなことは肯定しないだろうが、真摯なポーズも美徳のうちだ)。
そもそも、彼らの“批判”が実効性をもってはならないわけがあるのだ。因習だらけの日本画の世界があって初めて“会田絵画”は意味をもつ。貸し画廊の前に置かれてこそ「なすび画廊」は痛快だ。「作家」居ずし「社長」立たず。制度を批判する構えを見せつつも、その制度がなければ自分たちの仕事も成立しないことを、彼らはちゃんとわきまえている。疑問と不満だらけの、この日本の現実こそ、彼らの仕事と切っても切り離せない“オペレーション・ソフト”なのだから。」
http://www.40nen.jp/index2.htmlより
実効性を持つとき、芸術作品は媒体となる。
ふむふむ
日本の現実がオペレーションソフトか。。
歴史とか、空想とか、日常と非日常とか、内省とか、科学とか、他人とか、、創作の源って色んなところにあるけど、ここまで斜に構えて、なおかつ現実と向き合うという姿勢は最近忘れてた感覚だな。と、思った。
インタラクティブなメディアアートとか、日常の中に溶け込む「作品」をつくる人達にはそういう視点があるのかな。
「(中略)ところが、もうひとつ彼らに共通するのは、破天荒で生気あふれる仕事ぶりと裏腹に、その仕事で何かが変わるといった信念や、他者をなんとか説得しようという気迫が、ほとんど感じられない点なのだ(“自己満足”にみえなくもない)。というより、おそらく彼らは、日本の美術を実際に変革しようなどとは元から思っていないのである。
美術作品が、「美術館解体」であれ「少数者の主張」であれ、何らかの“実効性”を目指したとたん、それはもはや「作品」ではなく、単なる“媒体”に成り下がる。そこで彼らは賢明にも、自分たちの作品から批判の実効性を抜き去った。いわば-やや逆説的だが-彼らの仕事はある種の“シャレ”なのであって、しかしそこがまさに、彼らの芸術の美点なのである(彼らに聞いてもそんなことは肯定しないだろうが、真摯なポーズも美徳のうちだ)。
そもそも、彼らの“批判”が実効性をもってはならないわけがあるのだ。因習だらけの日本画の世界があって初めて“会田絵画”は意味をもつ。貸し画廊の前に置かれてこそ「なすび画廊」は痛快だ。「作家」居ずし「社長」立たず。制度を批判する構えを見せつつも、その制度がなければ自分たちの仕事も成立しないことを、彼らはちゃんとわきまえている。疑問と不満だらけの、この日本の現実こそ、彼らの仕事と切っても切り離せない“オペレーション・ソフト”なのだから。」
http://www.40nen.jp/index2.htmlより
実効性を持つとき、芸術作品は媒体となる。
ふむふむ
日本の現実がオペレーションソフトか。。
歴史とか、空想とか、日常と非日常とか、内省とか、科学とか、他人とか、、創作の源って色んなところにあるけど、ここまで斜に構えて、なおかつ現実と向き合うという姿勢は最近忘れてた感覚だな。と、思った。
インタラクティブなメディアアートとか、日常の中に溶け込む「作品」をつくる人達にはそういう視点があるのかな。
by tesseta3
| 2006-12-28 17:31
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